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2003/12/06

Mさんへ アメリカには公募展はありませんが・・・

2013年12月6日 朝刊(南日本新聞)
 
 
私が公募展に出品した理由は複数あります。
ただ、出品しておきながら矛盾していますが
会場を観ていると、人それぞれの感情の表現に
優劣を付けることに何かしら抵抗を感じたのは否めませんでした。
ただの入選に対して受賞作品は表示してあり
それらが他より優れていると
観る人は たぶんそれに捕われた見方や価値判断をしてしまうでしょう。
 
 
11月21日付けの南日本新聞に日展について記事がありました。
10月には日展書道部の問題が取り上げられていました。
その内容はもっと具体的で露骨なもので「入選入賞にはお金が掛かる。」でした。
 
私がこういう関係の公募展に出さずそちらへ渡った理由の一つに
今取り上げられた内容の事柄が30年前でも慣習的に行われていました。
美術界の常識ともいわれました。
 
 
審査員も人の親で人の子ですから
身内がかわいいのと同じ、
弟子や教え子が出品したとすれば手心を加えるのは人情で、
それは百歩譲っても 大学の裏口入学ならぬ裏口入選に
お金が掛かるとなれば もう社会的に許されないことでしょう。
権威付けするために公の機関を冠とした賞があるのですから。
 
そもそも日本での多くの美術の値段の価値、価格はこれら公募展の
入選、受賞歴が基準になっているのが現実でしょう。
 
 
美術界で「どこぞの団体に所属する」という表現があります。
団体とは日展とか公募展を運営する組織(集団)の事です。
 
個人で活動するより
組織に加わり入選、入賞すれば世間の評価を得られやすいです。
新聞などの扱いも大きいでしょう。
 
・・・必ずしもそういうことだけではありませんが、
 個人の活動は、ようするに「個人プレー」で
 低く見られがちで評価もされにくいです。
 ・・・自画自賛とも言われかねない。
 
 
アメリカと日本の比較文化を勉強されているなら
美術の価値、値段の背景がどうなって
どう構築されているか調べるのも面白いのでは。
 
公募展の実情を知って
こういう世界に一切関わらないで無所属を通している人、
アンデパンダン展グループ展等に参加している人も少なくないです。
 
公募展に名前が登場する人だけが芸術家ではありません。
 
私が昨年から出品し始めた南日本美術展も同じです。
むしろ出品しない作家の方が多いでしょう。
 
南日本美術展は一般公募展ですが
審査は公平だと信じます。
審査員は地元とは関係の無い人たちで
繋がりはありません。
 
私の場合なぜ出品するのかと問われたら
自画自賛とみなされることを避けたい気持ちと同時に
自分の考え(陶芸観)を
不特定多数の人の目に晒して、
こういう生き方もあると知ってもらいたいからですと
答えます。
 
 
 
格好つけて言えば
人生はいくつになっても冒険で挑戦です。
創作はそのものが既成概念の破壊です。
 
日本人の価値判断は
権威付けされたものによるところが大きいです。
またそういう教育を受けて育っています。
 
たとえば美術の世界では本や教科書に掲載されていた
作品ほど重要で価値があるかのように教えられ
美術館に足を運んでも「あ、この作品は教科書に出ていたあの作品だ。」
と観る傾向があります。
それは世間の評価を尺度にしているということになりませんか。
 
アメリカの場合は世間や周囲の評価より
自分が好きかどうかが重要になっていて 
つまり価値判断の尺度は自分自身にある、でしょう。
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 

2003/11/08

Mさんへ    松崎正治さんという画家

1981年バージニア州のウォーレントンで
過労から病に倒れ緊急入院10日ほど
病院のベッドにいました。
4人の相部屋で することなくテレビを見ていると
番組合間の広告に日本の会社が頻繁に出ていました。
車、カメラ、電器製品・・・・
その度に
「ほら、また日本だ・・・」と冷やかしなのか誉めているのか・・
それらCMは日本人の私にとっては
誇らしいものではなく次第に疎ましいものに感じるようになりました。
品質のいい製品には違いないだろうけど
それらは日本人が考え出したものではなそうだったからです。
日本人として誇りに思えるもは一体どんなものだろうか
病院のベッドで日本へ思いを馳せました。
(日本が世界中からエコノミックアニマルと揶揄された時代で、バブルの時代です)
頭に浮かんだのは田舎の事でした。
松崎正治という画家です。

その2年前、アメリカへ留学する事が決まって
田舎で画家として絵を描き続けていた
松崎先生を報告を兼ねて訪ねました。

当時先生は70歳ぐらいだったと思います。

蔵のある旧家ので
その蔵の2階をアトリエにしていました。
あまり田舎から出ることはなく・・・・
絵を描く事のほかに
地元や県の郷土史の研究や
資料の作成に携わって
アトリエにはそれらに纏わる写真や資料が飾ってありました。

これから留学で渡米する私にとっては
それらが古臭いつまらないものに思えました。

それが2年後アメリカの病院のベッドで
日本人として誇りに思えるものは何だろうか・・・・
考えを巡らせていると行き着いたところは
この松崎先生の研究したり発掘していた
郷土の歴史の蓄積されていたものこそ
・・・・地味なものだけど
私たちが日本人として誇れるものは
そんなものに思えて仕方がありませんでした。

帰国してから実家の父の蔵書にあった
和辻哲郎の「風土」を読み直してみました。
昭和の初期に著された本ですが、
すでに読んでいらっしゃるとは思いますが・・。

印象深い下りがあります。(要約ですが)
・・「文化(独自性)はそれぞれの気候風土によって生まれる・・・
  近代文明(交通、伝達手段の発達に伴い 物は容易に移動できるようになったが
   文化はそうはいかない。
    
 食物に例えるとたとえばスペインの茄子の種子は日本への移動は
 容易に出来る。しかし味(そのものの味や料理による味)
 は移動できない。味は文化にあたる。
 文化(味)は気候、風土、生活風習、歴史、宗教などの影響を受けている。
 昭和の初期ですが、この頃で西洋文明の流入で日本の独自性が失われつつあると
憂えていると述べています。
ここにある独自性は大事なもののように思えます。


                         ※この本はプリンストンへ送ります。

先生の画学生の頃の親友でロスアンゼルスの郊外に住む
画家八島太郎さんへ渡して欲しいと
桜島の絵など手土産物を預かりました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B3%B6%E5%A4%AA%E9%83%8E
(八島先生は日本へ帰国されたら良く田舎の松崎先生を訪ねていたそうです。
 よほど親しかったようです。)

※八島先生は1994年カリフォルニアで亡くなりました。
   下の写真は1980年です。
 
 
                  ※八島先生についてはまたゆっくり語りたいと思います。
      話すことは山ほどあります。
      取り敢えずネット検索で見てください。
      たくさんのエピソードの持ち主です。
      アメリカと日本と、太平洋戦争の戦中戦後の話では
      必ず登場する重要な人です。
               


          右)  鹿児島県  郷土史の資料の 表紙を飾った版画の一枚
           

                          画家松崎正治の遺作「河童とホホジロ」
1996年享年86歳
1980年のころの出来事です。
松崎先生は郷土の伝統文化について資料を集めていました。
伊佐盆地の中央を流れる川内川は大雨による氾濫が度々で
これを治めるための水神や河童伝説が多く、語り部でもありました。
30年ほど前、昔から祭られていた水神が河川工事で廃棄されようとしている
ことを知った先生は
その場に祭るように抗議されたところ公的(文化財保護委員とか・・)な役職から外され
しまったそうです。(直接先生から聞きました)
その話をされる先生の手にはライカのカメラがありました。
「これは文化財の資料を作るために必要だったので、先祖伝来の田んぼを売って買いました。
 すこし贅沢かとは思いましたが、後世に残す大事なものですから・・・」



伊佐盆地 正面は霧島連山
松崎先生が絵の題材にされた景色です。二人でよくエドワード・ホッパーの話をしました。
・・・絵を描く対象は身近な生活の中にたくさんあると・・・・。



















                     画家松崎先生の土蔵のアトリエのあった敷地。
     入り口は古い屋根の付いた門があり
     門を通ると母屋の隣に蔵があり
     いかにも旧家のたたずまいでした。

※私が帰国する際挨拶に八島先生を訪ねました。
 「松崎君に土産に持って行って欲しいと棚からスコッチウイスキーのボトルを預かりました。
帰国して届に行くと大そう喜ばれて車で行っていた私へ気遣いされ
「こういう上等のウイスキーは左手に氷水、右手にショットグラスでストレートで飲むに限ります。
 古川さんが泊まれるときに開けましょう。それまで楽しみに栓を開けずにとっておきます。」
・・・・結局開ける機会はありませんでした。
真面目で律義な先生の事、きっと亡くなるまで栓を開けることはなかっただろうと思います。
そんな先生の事を思い出すと今でも胸が熱くなります。
私の手元には松崎先生の作品は数十点あります。
その殆どが田舎の風景や古来の伝統文化をテーマにしたものです。
(※私の父が購入したものです。)

※南日本美術展第1回新聞社賞はこの松崎正治先生です。

※Edward Hopper はニューヨークのホイットニー美術館で観れると思います。
※NHKの日曜美術館を毎週見ています。
  取り上げられる芸術家の人生は紆余曲折があり
  経済、生活面で苦しているケースが大半です。
  この松崎先生も例外ではありませんでした。
  周囲との協調性や社会との適応性については
  持ち合わせていない人は多いようです。(私も含めて)
  篠原有司男さんについて、貧困な生活は絵に対して純粋な姿勢を貫いた
  結果で、ハングリーが絵に向かわせたのではない。とあります。
  ホイットニーではEdward Hopperと並んでJackson Pollock も観たらいいです。
  美術館で絵を観ただけでは読み取れないと思います。
  彼らの伝記を読んでください。
  私は和辻哲郎の「風土」と彼らの絵や生き方と結びつく点が多々あると思います。

 
 
※ 私のアメリカ体験で面白い、とか関心を持ったのは
     陶芸家ではKen Priceという人です(2012年亡くなりました)http://www.kenprice.com/
  年齢でかなりの変遷をみますが、1980年頃から注目されていました。
  住む場所で作風が変わるので どこに住むか探す人だと聞きました。
  本ではCarlosCastanedaです。没頭するほどではありませんでしたが
  1970年代後半アメリカ西海岸で起きた自然回帰論への影響は大きかった本だと思います。
  当時学生(米国)の間ではベストセラーといわれていました。

 アニミズムがMさんの比較文化の対象かは分かりませんが
アメリカ大陸の原住民の間に根付いていたもので
1970年代のベトナム戦争反対や急速な経済発展に伴い自然が破壊されていく
事への反発が特に強かったアメリカ西海岸の学生運動やピッピーの間には
少なからず影響を与えたのは事実だと思います。
※そのころアメリカでは「ユダヤ人と日本人」の著者イザヤ・ペンダサンのように
 カスタネダはどこのだれなのか謎の人物とも言われました。
・・・・当時の流行の文化や若者の気質を理解、受け入れるには
  これらの本を読んだほうがいいだろうと
  本が傷むほど読みましたが 私の体には浸透しませんでした。
帰国して義弟(当時コピーライター)に話すと学生時代に読んでいました。
1981年、モントリオールに尊敬する知人を訪ねるとデザイン事務所を開いていましたが
その名称は「IXTLAN」で、驚いた私は「これはカルロス・カスタネダですか?」と
聞くと「そうです。君も読みましたか・・・」・・と返ってきました。
※真崎義博訳(二見書房)
※関連書 「気流の鳴る音」交響するコミューン 真木悠介
カスタネダはどこか柳田國男(民俗学)に通じるところもあります。

2003/09/07

アメリカの陶芸も見てください

アメリカの中学、高校の多くで
工芸のやきものを導入しています。
轆轤も陶芸窯も備えられていて
大概の子供は轆轤も経験しています。
陶芸で何を学ばそうとしているのか考えてみたことがあります
比較すると違いが見えてきます。




これまで陶芸を学んできて
成り立つ仕組みを知ったうえでさらに工夫するということは大事だと思いました。
人まねでは創作とはいえません。
過去のものや人の作品を参考にはしてもかまいませんが
真似だだけで終われば 自分らしさをどうやって出すか
思考や工夫をしないで終わります。
技術的な部分は進歩するでしょうが
それを繰り返していると頭の創造する部分は
発達しません。
両方がバランス良く必要だと思います。



しかし今は材料や道具を買うもので済ませてしまうので
工夫とか考えるとか 必要としない。
陶芸を教えていた頃、みなさんが自ら思考しないことが悩みの種でした。
陶芸をすることの大きな意味がここにあれば
他に何を教えたらいいのか分からなくなる。
よく習いにきたひとへ、手だけではなく、もっと頭を使ってください
工夫することを考えてください。 と良く口にしました。
でもあまり伝わりませんでした。



5千年1万年前は人はろくな道具もないところ
粘土をこねて、器を作り火で焼いて硬くし
器として使っていました。
買ったものはなく
みんなそぞれ工夫しながら作ったはずです。

せっかっくの機会があっても
頭は思考しなければ劣化するのみです。





40代幼稚園や保育園。
小学校、中学校、高校、教職員を対象のやきものつくりを教えていました。
 
好奇心を持ち、知ろうとする姿勢、
自分の感情、感覚でそのまま粘土、造形に表すのは
保育園幼稚園の子供達は旺盛でした。

例えば、彼らが興味を持ち作りたいものは
怪獣とか恐竜、動物、自動車、(特に男の子の場合ですが)で、
粘土を持たせて最初のきっかけさえ与えれば
それぞれの思い(イメージ)でそれぞでに勝手に造っていき
みんな個性丸出しで、一緒にやっていて楽しいでした。
轆轤成型のデモストレーションはもちろん、
釉薬掛けして窯に入れる作業も
興味津々で取り囲まれてしまうのです。
それだけに窯焚き後翌日の窯出しは子供達は喜びましたね。

私が陶芸を通して子供達に伝えたかったのは
ものの仕組みやそれが出来るまでの過程を知ることに
興味を持って欲しい事でした。

それらがなかったら、ただ作ったで終わってしまいます。、


大事に扱わないと壊れる焼き物だからこそ
自分で造った”もの”を大事にする心を口で教えるのではなく
自ら養える、子供達に陶芸を体験させるコンセプトと考えていました。

つくりが下手で水が漏るような器でも
与えられた器よりも愛着を持ち大事にしたはずです。
それは質に問題です。


もしそういう経験が無ければ
どういう教え方をするかといえば
「物を大事にしなさい」、とい口で教えるでしょう
「どうして壊したの」とか抽象的です。
具体的では「せっかく買ったのに」・・とか、
子供達がもの大事にしなくてはという自ら感情を養うものではく
与える側の都合で押し付けようとする場合が多いのではと・・・。
「金銭的な価値に置き換えても考えるでしょう。」
・・・高かったのだから大事にしなさい。
 せっかく買ってやったのだから・・・・とか・・・・

小学校に入学すると、子供達の頭から消えるのが
感情のままに任せて造形する姿です。
私が思うには
お手本(既成概念)があり、右倣えで 協調していく姿と、
たぶん造った作品が通知表の採点の対象になるかも知れない
とすれば、感情に任せ個性的に作るより
功技的に上手に作ろうとしているかのように見えました。

教師の側にも採点の基準となる物指しがあり、そのために
学年が上に行けば行くほど個性が薄らいでいき
感情を出さなくなる傾向を見てきました。

先生の頭の中の成績をつけるとき使う物指しがはいっていて
子供達はそれを意識してるようにも見えました。

個性のない上手に作られた同じような作品が並びます。

怪獣や恐竜を作らせれば
みんなが篠原有司男さんの作品ばりの
すごい誇張された、
怪獣や動物が現れていました。




思い起こせば
音楽の時間(試験)で
イ短調とは、ト音記号を正確に書けとか
交響曲「田園」の作曲者は、
交響曲の父と言われる人は誰か・・・・・等々
正確に記憶、答えられた人ほど
通知表にいい成績がもらえるのは仕方が無かったことでしょうか。
それだけで悪い成績をもらい音楽嫌いになった人は少なくないと思います。
そう思うのは私だけでしょうか。
図工や美術も同様でした。

また篠原有司男さんが登場します。

私は彼のロフトに足を入れて作品を見て第一印象は
「この人はいったい何を考えているのだろうか、
 頭の中はどうなっているのだろうか、
 
なんと子供ぽいとか(失礼ながら正直そう思いました)
拒絶反応でした。
ワシントンの先生も一体何を学べと来させたのか
分からなく 頭がパニックになりました。

2日目の夜食事しながら、食後飲みながら
陶芸や美術について語り合いました。


篠原さんの事を
(私なりの感じ方ですが)
少年のようにも思えるところがありました。
子供がそのまま大きくなっら感じで、

私が子供の頃から絵が好きで
画家になりたいと夢に思った頃がありました。
そのときの、そのまま大人になったら
この篠原さんのようになったかもしれない、と
考えに至るとパニックは消え、
急速に親しみを抱きました。


30年前 ソーホーのロフトで語ってくれました。

「僕は東京芸大を中退してるんだ。
 
 理由は4年の卒業間際に、学長から直々お呼びが掛かって
 何事かと行ってみると、おれに”君はこの学校を退学してくれないか”
 言うんだ。わけを聞くと”君には芸大卒の肩書きは必要ないだろう。
 十分実力でやっていける人だ”と云いやがってさ、
 つまり、俺がこの大学の卒業生だとなれば、この芸大の歴史に
 傷が付くと思ったんじゃない、恥だとか・・。そのころおれはろくに大学へは行かないで
 外で結構暴れていたもんね。あのネオダダイズムってやつよ。
 学校へいくより面白かったもんね。
 学長から頼まれて辞めてやったわけよ。俺から辞めてやったんだ。・・」

そんな話しながら、ふと窓際の棚に4、5冊積んである見覚えのある本に
気づきました。
「前衛への道」です。偶然ですが、この本は学生時代に読んでいました。
 
その著者が目の前の篠原さんだと分かりませんでした。
「この本は読んでいますが、なぜここにあるのですか?」
「そいつは俺が書いたやつだぜ。」
「え、本当ですか!、あ。そうですね。
 私は表紙がサイケデリックで帯の岡本太郎の表現が面白かったので
 つい最後まで立ち読みしました。よく覚えています。」
「君、立ち読みなんてひどいな、ちゃんと買って読んでよ。
 
 君一人勝ってくれれば俺の懐に印税が入ってくるんだよ。
  
「それは失礼しました。日本へ帰ったら必ず買います。」

と、そんなわけで書斎の本棚に「前衛への道」があります。
      左下の本が「前衛への道」
 
 





「ニューヨークの次郎長」の「あとがき」を書かれた
太田克彦さんという人にも縁が会って話をしたことがあります。
そのあとがきにもありますが

日本の生活に溶け込んでいるぶんにはあまり意識しないのだが
ちょっと海外の空気に触れてくると、日本という国がなんとも
異常に見えてくる。そこには単に民族のちがいでは片づかない
何か別な要素があるような気がして不安になる。ここ数年のあいだに
何度かニューヨークを訪ねたが、そのたびに同様の感想をもってきた。
篠原有司男さんの小説「ニューヨークの次郎長」は、そういう意味で
かなり強烈な問題提起になっていると思う。・・・・
・・・・・
高度経済成長をとげている日本にいると、物質的な豊かさと
精神的な豊かさとの関係が見えなくなってしまう。
いま、日本人がみんな小銭をつかむために時間に追いまくられ
大切な面をどんどん削り落としているように感じられてならない。
日本に感じる異常さはそいうところに原因がある。
これまでにアメリカに同化しようと試みた日本人アーテスト、または
アメリカ社会の重圧に抗しきれず帰国してしまった画家の数は多いが
篠原さんはニューヨークにどっしり腰をおちつけ、なおかつ日本人で
あることを自己主張している。
すでに日本の中で上滑りしている伝統とか、歴史的ヒーローが
篠原さんの目には鋭くとらえられなおされ、作品にとりこまれている。
たとえば京都のお寺だとか巡礼、またはお化けや鬼などがあり、
それらがニューヨークの画壇にたいする秘密兵器になっている。
しかもその鉾先は同時に日本の文化状況にも向けられていると
ぼくは確信している。


1985年に太田克彦さんが書かれたことです。
それから私達は何か変わったのでしょうか

話があちこち飛ぶようですが
みんなつながっています。


子供達の成長期に焼き物つくりを体験させるのは
人類ものつくりの原点があるからだとも思います。
 
是非 ニュージャージーやペンシルベニアの田舎の
中学や高校を覗いてみてください。

帰国されたら日本の小中学校で導入している陶芸との
違いを見てください。








2003/08/24

Mさんへ  篠原有司男さんの現代陶芸への思いです

以下篠原さんの書かれた文です。




「・・・・
やきものを現代美術と呼べるだろうか。
・・・
確固たる自己主張、表現形式を追及し続けるアーテストが
そぞれの成果だと自信をもって発表しえた時、
それぞれが最近大いに期待を持たれ
現代美術のジャンルに割り込んで来たやきものだとしても
ぼくらは目を見開き心を全開にして受け富め賞味し、
拍手を送ろうではないか。
と云っても、輝く未来がそう簡単に手に入るものなら誰も苦労しない。
出来上がったやきものをたたき壊すのはやすい。
粘土こねの時点では
大きさ、形などに無限の可能性をひめた造形も
窯を通過し火あぶりにされて出て来た時は、いじけ切った壊れ物でしかなくなり
初めの純粋な創造精神は窯の制約で
形は平凡に曲げられ 色肌触りまで均一化される運命、
そのクラフトマンシップと呼ぶマンネリズムが良し悪しを左右し
アートとは遠くかけ離れたものになってしまう。
・・
見る者にこれは一体難だ!と云う芸術の初原的で最重要な
質問をあびせる
陶芸の固定的観念を一掃し、
堂々現代美術の一翼を荷い切っている・・・。」

・・・

アメリカやカナダ、メキシコ辺りまで陶芸の学部がある大学
美術館を歩き回り、それだけの陶芸家や陶芸教授に会い、
自分らしい陶芸で何をやったらいいか探し回りましたが
こういう意見を聞かせてくれる人には会えませんでした。
結局帰国前、最後に会った篠原さんの陶芸観でした。
これは先だって書きました
奥君やスティブ・トービンの作品、生き方に通じる内容だと思います。

どこのどんな陶芸家の教えより
もっとも考えさせられ
良くも悪くも影響を受けました。



ニューーヨークの近代美術館に
北大路魯山人、浜田庄司などの明らかに工芸で現代美術とは
言えそうにない壷や食器が展示されているのを見ると
その定義や分類をどう説明するかと問われたら
即答に困ります。話せば長くなりますので
何時かお会いしたときに語りましょう。



                                               1980年 ソーホーのロフト





篠原さんはブロンクスにアトリエ兼自宅はあります。
 

2003/08/23

Mさん SPレコードと蓄音機

先日SPレコードの話しましが
昨日工房でNHKのラジオを聞いてると
たまたまSPレコードの特集で気づくのが遅く、
3時を過ぎて途中から聞いていました。
聴きたいと願ったのはカザルスの無伴奏チェロ組曲で、
期待通り3番のアルマンドでしたが、放送されました。

先日の話はSPを探してニューヨークからバッファローを経てトロント、
トロントからボストン、ニューイングランド地方を経てニューヨークへと、
このコースはアンテックショップが多い地方で、
アンテックショップ、中古レコード店を見かける度に立ち寄って探したのは
カザルスの無伴奏チェロ組曲でした。
しかし一枚も見つかりませんでした。

カザルスのSPで辛うじて買えたのは
ブルッフのコル・ニドライだけでした。(※見つけて買ったのは友人の方でしたが
探し物が見つからなかった私を哀れんだ友人が帰国する直前に、
荷造りしている私へ、これは君にやるとくれたものです。)
結局、私の所有するカザルスのレコードはSPの復刻盤とCDです。

小さいラジオの音でしたが
その雰囲気は十分伝わってきました。
カザルスのSPを探し回った旅のことを思い出していました。

帰国して、その事を東京のM先生に話すと
「そういうのはやっぱり東京ですよ、
 東京というところは金さえ出せば大概の物は
 手に入ります。」と・・・・
そこで 神保町の古書センターのFレコードへ行ってみると
やっぱり カザルスのSP、バッハ無伴奏チェロ組曲が数枚ありました。
1枚が8千円から1万5千円(コンデションの良し悪しで差が)
探し回ったことを思うと愕然としました。

しかし買いませんでした。
SPプレイヤーは(針も)持っています。






http://www.nhk.or.jp/gogomari-blog/165247.html
http://www3.nhk.or.jp/netradio/

http://www.nhk.or.jp/gogomari-blog/2013/08/20/



2003/08/19

Mさん、ハングリーから絵が生まれる、ではない。 悪妻から哲学者が、良妻から詩人が生まれるのは本当だと思います

この機関車を描いたO君はペンシルべニアに移り住んでもう30年にもなります。
彼との出会いは私が大学を諦め鹿児島で陶芸を勉強するために帰郷しているときでした。
彼自身も美術を目指し東京芸大を2回落ちたところで絵を諦め東京を引き上げて実家の小さい町工場(鉄加工)を継ぐべく父親の手伝いをしていました、

私の習い始めた陶芸が美術だととそのころ思ったことはありませんが
美術に未練があった彼は毎晩のように仕事を終えると片道30分も掛けて
車で私の工房へやってきました。
コーヒーと音楽と美術談義で夜を明かすことはたびたびでした。
そのころ彼は殆どやってくるだけで、私は彼の家や工場は知りませんでした。

2年目過ぎたころ
私に、自分の描いた絵があるので見てくれないか、と家へ案内してくれました。

下が鉄工所(下町の古い鉄工所といった感じ)、2階が家族の住まいで、
、私を車の中に待たせて外階段を駆け登り
、高校時代に描いたという絵を何点か抱えて降りてきました。

狭い車の中で広げて見せてくれました。
・・・自分の事も知ってほしいという気持ちをぶつけてきた感じでした.
クロッキーやデッサン、で、高校生の絵でした。
それは決して器用に描かれたうまいと思う絵ではなく
太い線で力強く荒削りに描かれていました。

かって同じように美術を目指した私の絵とはまるで違う雰囲気をもっていって、
器用に描かれた絵ではないのに何を描こうとしているのか
訴える力の大きさに圧倒されて
私とは違うタイプだと感じさせられました。
今思えば村山 槐多の感じです。

静物も器用にリアルに描いているわけではないのに
存在感は迫力が迫って来るものでした。
デフォルメや省略化されたこのような描き方は本では知っていましたが
・・・・
これをきっかけに彼とは急速に親しくなりました。
普段は数人の工員の人と父上の仕事を手伝い、工場を支えていました。
お互いに24年生まれの23歳でした。

彼にとっても美術の道で生きることは捨てがたいことだっことは
折に触れて感じました。
彼の両親も同じ気持ちだったようです。
35歳の時彼は再度美術の道へ戻ることを決心しました。



彼の高校2年生のとき南日本美術展 50号 油彩 ベニヤ板

 

     
  
 
  2013年夏NHK日曜美術観で「神田日勝」を見ていました。
  1980年の芸術新潮は今でも手元にあります。
  特集の「ハングリーが生んだ絵」で自画像が紹介されて
  初めて神田日勝という画家を知り、それ以降見ることはありませんでしたが
  掲載されていた自画像や記事は印象深いもので 30年記憶していました。
  30年経ってあの自画像がテレビの画面に現れると瞬間に記憶がよみがえり、
  テレビ画面に釘付けになりました。当時の美術雑誌には2点自画像がでていただけで
  この「死馬」など初めてみる絵でした。
 今でも思い出しては番組の録画を繰り返して見ています。
 アメリカのO君へも見て欲しいと録画を送りました。
 番組の中で、使われているのはキャンバスではなくベニヤ板に描かれていて
 キャンバスを買う余裕が無かった・・・と説明がありましたが、
 
  O君も同じでした。かれは一度展覧会に出すと返却された絵を塗りつぶし 
 その上にまた次の絵を描いていたそうで、
デッサンやクロッキー以外で現存しているのはこの「機関車」1枚だけです。
 

 
 
 
描いているのは「鉄の機械」と「死んだ馬」と異なりますが
描こうとする対象の本質を捉えるところは2人に共通しているように思えます。
対象を見る目(心)が人間と同じに扱っているように。
O君は「無機質な鉄の機械」だけど、操車場の機関車格納庫で休息して
点検を受けている場面です。
神田日勝の「死馬」は、
犬や猫、家畜と生活されている人には特に伝わりやすいのではと思います。
描かれているのは物ではなく、つい先まで血が流れていて温もりがあり
閉じている目は神田日勝を見つめ
別れの寂しさや病気の苦しさを訴えていたように感じます。
そして死んだ馬は 生きねばならないという呪縛から
(この馬にとっては神田家に仕えるながら生きるとうことでしょう)
開放され安らいでいるようにも見えます。
 
 
テレビの画面といえど この「死馬」を見ているとその度に涙がこみ上げてきます。
絵の力ってすごいですね。
北海道の神田日勝記念館へ行ってみたくなります。
窪島さんは20回・・30回は行かれたそうです。
 
 
写実といっても ただ対象の形を似せてそっくりに描くのではなく
物の本質を捉えろとか、内面まで描けとか よく言われますが、
私の妻は「その指摘は抽象的観念的にで、絵のどこにそれが
描かれているのか 自分の頭では解らない。」・・・・といいます。
 
・・・頭で理解するとの問題ではなく 心の目で見るのだ、といえば
さらに混乱するようです。
心の目を感じ方だといえば、・・・それは人それぞれでみんな同じではありませんので
、話、言い争いはそれ以上はしません。
 
 

余談ですが、
1980年の7月号に特集された「ハングリーが生んだ絵」に
ニューヨーク在住の篠原有司男さんも取り上げられていました。
1982年彼のソーホーのアトリエ兼自宅で聞かせてもらった話では
「俺は今確かにハングリーだ、でも勘違いして欲しくないのは
 ハングリーだから絵が描けるとか、ハングリー精神で頑張力が沸くとか
 世間でよく言うけど
 
 俺の場合そんなのとは違う。
 俺のハングリーは純粋に芸術を追求した結果だ。
 絵の具を買う金がないので、苦肉の策というやつで
 ニューヨークってそこいらに捨ててあるダンボール箱はいくらでもあるじゃない、
 それを拾い集めてオートバイや怪獣を造ったら、
 いよいよごみ拾いまでするようになったか、と云われるわけよ。
 
 使ってみたら面白もので・・おまけに只だし、・・・。」
 と本人が語りました。
 
 
 
 
 
 

http://www.art-blue.jp/gsin/1980/198009.htm

2003/08/17

Mさんへ  ガラス素材の作品は美術か工芸か どっち・・あまり意味は無いようですが

ちょっと解らなくもない妙な話ですが
実際体験した事です。

ガラスはアメリカでも分類では工芸Craftにされる事が一般的です。
友人のSteve TobinはArtist というべきで Craftsmanではないでしょう。
http://www.stevetobin.com/
彼の初期のガラス作品ですが彼のスタジオでの制作風景です
現在の工房は間口が60m奥行き100mのジャンボジェット機格納庫のような
巨大なところです。  
そこも手狭だと言っています。 ホームページで見てください。


彼らはイメージを具体化するためには
既成概念や過去の技術での範囲を超えていれば 決して諦めたり
できる範囲に縮小したりする事(妥協)はしません。
そうやって新しいことに挑んで来ています。 
必要に応じて技法や装置、素材まで作り出しています。
下の写真は2m3mのガラスの作品ですが
トルソーに至っては冷却に数か月(1000度から常温まで下げる期間)掛かりますが
装置等はすべて自作です。
この時は階段状脚立を作り使っていましたが
このあとでは中古のフォークリフトを買って支える人を持ち上げていました。
彫刻家が石や木、ブロンズなどを自己表現の素材にしているだけで
彼らもま たたまたま出会ったガラスを自己表現の素材にしているということです。
油絵の画家が絵の具やキャンバスを素材にしているのも同じでしょう。

私の陶芸でも同じような状況です。
陶芸だから茶碗や皿など実用品を作るのが旨だと
批判めいた意見をもらうことがあります。
陶芸をやっているからといって食器に限定することは
了見が狭すぎる気がします。それでは食えないだろうなんて
心配してもらうのはありがたいですが、
それは余計で大きななお世話でしょう。

一口に陶芸、工芸と言っても
人の数ほど個別な生き方があると思います。
伝統を継承する生き方や仕事も重要です。

ここの場合、
固定観念(既成概念)にとらわれず彼らがそのガラスで何を表現したいのか
何を伝えようとしているのか その中を見て欲しいものです。


この写真を見て彼らが工芸品を作っているようには私には見えませんが。
いかが思われますか・・・。
ベルギーの教会での個展
下がスタジオ(150年前に建てられた農家の納屋の中)
ペンシルベニア州クーパーズバーグ

 ニューヨークの「ミュージアム・オブ・アート&デザイン」
         2008年以前は「クラフトミュージアム」でのSteveの作品Waterfall
       素材は ガラスです
    等身大のトルソーガラスをブロンズの彫刻と同手法で鋳造


下は奥伝三郎君の「BONES」 ベルギーの教会で展示。


彼らがこういうガラスの作品を売って収入を得ることを考えて
制作しているようには思えません。
結果的に売れることは望むでしょうが
それを目的にすることとは異なるでしょう。

 奥君のテーマは彼自身「生と死」だと言っています。

身にまとう地位とか財産とかキャリア、誇りとかさえ、剥ぎ取れば、つまり裸になった姿、
それらは余計なものが無く本当に美しいもので凛として立っていて
自分の熟れの姿をこんな風に望む、
そして誰でも行き着くところはここ、と語っています。

ガラスの作品は美しいけどはかなく折れそうで
くず鉄で出来た頭部は錆びていてやがて朽ち果てる運命を見せている。
いつかは消えてなくなる自分の運命と重なる・・・。と
石や木、鉄の骨でもそれぞれ持ち味があります。
しかしガラスには鉄や木、石などに無い質感、があり
それが彼のイメージする表現に合っていたということですね。

1967年7月16日のニューヨークタイムズ
新聞に写真が掲載された作品は
日本ではあまり評価されることはなく、ニューヨークの画廊へ送り、
その後スイスのローザンヌの美術館の.買い上げになりました。
現在スイスにあります。
彼の作品がドラマチックという表現は 工芸ではなく
          アートだと認めたようなものです。
 
 
            スティブトービンのブロンズ(アフリカで制作)
 

 
Waterfall」はニューヨークの「近代美術館」ではなくすぐ近所の「近代工芸館」(当時の名称)
に展示された事で、美術ではなく工芸だと分類されると
悔しそうに話したことがあります。
一緒に作品作りをながくやって来ている奥君も同様です。
やはり彼の「BONES」も工芸と見なされてきました。
トービンの作品については初期から現在までホームページで見られます。
見てください。
 
ニューヨークのトリニティ教会に設置されているスティブトービンの作品(ブロンズ)
 
 
 
 
今はもうそんな事はないでしょうが
かっては、クラフトに分類されることを悔しがっている時期がありました。
 
私の体験というのは 奥君の作品を通じての事です。
彼が癌で倒れ手術し再発率が80%と宣告されたとき
私は彼に望むことを尋ねると、生きているうちに日本で個展をしたい。
と言いましたので、残された時間に猶予はないと思いましたので最短で、
帰国してすぐ準備に取り掛かりました。
 
彼の個展は、それから半年後の4月、鹿児島の黎明館で開催しました。
ガラスや鉄、ブロンズが素材なので重たく総重量は8トンでした。
ぎりぎりまで制作をしたいと望みましたので
コンテナ輸送(船便)では間に合わなく航空便に切り替えたのはこの時の話です。
航空会社と運送会社に協力を要請
メセナとして異例の待遇を受けました、
2人でニューヨークへ何度も足を運びました。
それらのオフィスは今は無いあのワールドトレードセンタービルでした。
 
解決しなくてはならない課題のひとつは
これがクラフトでなくアートだと証明することでした。
福岡空港で通関の際、
これがクラフト(工芸品は商品)だと関税が掛かり
アートだと認定されると
芸術個展の目的なら商品ではないと見なされ
関税は掛からないのです。
 
お堅い役所の言うことですが
言われてみると納得のいく話です。
奥君は作品制作以外、面倒なことは一切しない人で
この税関へ提出する「これはガラスでできていますが
  工芸品ではなく芸術品です」という申請書は私が書きました。
数ページからなる論文で、フランスやベルギーでの個展の写真とか
アメリカでフェローシップを2回も受けている事など、
ニューヨークタイム記事も添付しました。
 
 
よく書けたと我ながら自信はありましたが、
やぱり税関では心臓に悪い緊張を強いられます。
 
美術品と認められてもらった時の喜びは今でも忘れられません。
 
 一難去ってまた一難やってきました。
 
再び問題がやってきたのはその4年後です。
鹿児島県の湧水町にアートの森(県立彫刻美術館)ができることになり
収蔵するための作品買い上げの公募がありました。
個展が最後だと思っていましたが幸い癌は再発しませんでしたので今も元気です
彼に次の希望を聞くと 地元の美術館に置いて鹿児島の人に末永く観てもらいたい
といいますので、市の美術館、私設の美術館、水族館まで足を運びました。
彼は金は要らない、寄贈でも構わないとまでいいましたが・・・。
そう簡単に買ってもらえるものではありません。
 
 
テレビの番組でドキュメンタリーで残そうと考え
テレビ局へ持ちかけても 作品を美術館へ寄贈することよりも
難しいことと思われました。
しかし奇跡が起きました。
 
その当時 地元テレビ局(民放)の実質的な決定権を持っていたBSさんが
 
この話を引き受けてくれたのです。(長くなりますので経緯は省きます)
全国放送のドキュメンタリー番組で製薬会社のスポンサーも付きました。
「命のモチーフ」1時間番組、
ナレーションはサザエさんのお父さん声役永井一郎さんでした。
 
 
この番組に取り上げられたことを
美術館へのプレゼンテーション用資料に使いました。
 
日本でキャリアや人脈の無い彼の作品を売るには
それなりのツールが必要なのです。
 
 
霧島彫刻の森へ買い上げの申請をしました。
ところが問題が起きました。
県の美術館建設準備室担当課長、学芸員が
わざわざ私の家へ訪ねて来て、
県としては「BONES」は買い上げたい作品候補にあがっているのですが
選考員の一番トップの先生が
「これはガラスだから工芸品になる
 
したがって彫刻の美術館にはふさわしくない。」と
反対されていて、とても難しい状況ですと。
そこで、提案されたのが 作品の素材がガラスでも美術になるという
反論する機会を設けますので 
アメリカの奥さんへ伝えて頂けませんか、論文でも結構です。ということです。
 
 
アメリカへ電話して彼にそう伝え、
その選考会の席で私が読み上げるから、と頼んでも無しのつぶて。
期日に限りがあり、
やっぱり私の役割でした。
 
それまで福岡の税関に出した申請書があることに気づきませんでした。
 「ガラスは工芸で美術ではない」と分類されるのを事前に回避するために
書いたもので、
すでに国の機関が美術と認定してくれている訳ですから
「クラフトか芸術か」今更議論る必要などないと
その資料を県庁へ提出しました。
 
購入に反対された事の理由はそれだけではなく裏事情があり
ただ口実にされていたようでしたが、(詳しいことは省きます)
結局、その後反対されることは無く 買い上げになり
現在 湧水町の霧島アートの森彫刻美術観の展示されています。
 (収蔵作品を定期的に入れ替えますので常時展示ではありません。)
 
展示されているときに観に行くと
学芸員の方が「この作品はこの美術館のシンボル的存在です。」と話してくれます。
 
 
ニューヨークはスティブの作品はウオーク街の近くのトリニティ教会に
設置されていますので是非見てください。
 
奥の作品はコーニング美術館に収蔵されています、が
常時展示されているかは分かりません。事前に
確認が必要ですが、行ってみていいところですです。
ナイヤガラの近くですから
ニューヨークから車(ハイウエイ)で3~4時間です。
彼は2回 アメリカのガラス工業会のフェローシップを受けて
ここに滞在制作しています。
2回受けたのは異例のことです。
・・・ただ、ここでのキャリアが 彼らの作品を
工芸の分野に入れてしまうことは大変皮肉結果になっていると
思います。
スティブでも同じで
以前掲載されていたのは常にクラフトの雑誌でしたし、
ニューヨークの近代工芸館での作品展示(ウオーターフォール)も
そうです。 彼らの作品は誰に目にもアートで
クラフトと見る人はいないでしょう。
その辺は 私のメールによって
先入観を持つことなく 見てください。
また意見を聞かせてください。
 
 
 
 こんなことで悩み苦しんでいるアーテストはたくさん
身近にいるのではないでしょうか。
私はこちらでよくNHKの日曜美術館を見ていますが
そういう人が多いですね。帰国されたらお勧めの番組です。
 
 
 
 

ガラスの骨になる部分はガラスで頭は鉄(廃鉄)で
ガラスはアメリカで制作、頭部は帰国して鹿児島の鉄工所を借りて制作しました。

ガラスを使っているので工芸になり
彫刻美術館にはふさわしくないと選考委員会で美術の専門家先生に拒否された作品です。

奥君は何を言われても馬耳東風、馬の耳に念仏、糠に釘・・・・・で何にも動じないで、
ただひたすら我が道をのんびり行く、という当人には極めて都合のいい性格です。
いつも頭に血が上り壁にぶつかり方策を考え行動するのは私でした。
                         霧島アートの森  高さが5m
                         右端の白髪の人は彼の父上です。
                         海のものとも山のものとも知れない美術の道に入り
                          また重い病に倒れた息子を案じて見ていらしゃったと
                          思いますが、彼はいい親孝行ができたことと思います。
 
                          この3年後に亡くなられました
 
下は制作風景動画              。
 
 
霧島アートの森
 
 
 
 
 
   
 
 
 
 
 
 

2003/08/16

Mさんへ Ceramic Artist とPotterとどう違うのという質問へ


今Mさんのいらっしゃるプリンストン辺りにも
ニューヨークの近くでもあることで
いくつかの陶芸窯元、陶芸家はいると思います。
アメリカの場合は
はっきり線引きがされていて
陶芸家はCeramic Artist  分野がCeramic art 。
食器制作を生業にする人を Potter で分野がCraft
と分かれています。
Ceramic Artistは美術系の大学で学位を取得、
美術の分野で活動、
収入はどうしているかって・・・それを聞かれても・・・・
アメリカでは現代日美術に対しては
ジャンル、素材、に関係なく
作品が好きだと思う人は買いますから、それなりにやっています。

内情はそれぞれで、
大抵の人が大学、専門学校で教えているケースが多いですし、
私の知る限り昨年亡くなりましたがKen Priceは作家活動だけだったような気がします。
私の先生だったポール・ソルナーは
陶芸の資材販売会社を経営と大学の教授をしていました。
茶碗や皿など実用食器を売って収入を得なくても
好きな事を自由にやっています。

是非下記の彼らのホームページを開き
作品や活動、考え方を見てください。
お分かりになると思います。
・・もちろんほんの一例に過ぎません。

極端な例ですが、ピーターヴォーカス
http://www.voulkos.com/suprplatejpg.html
PaulSoldne(私の大学時代の先生です)
http://www.paulsoldner.com/
Ken Price
http://www.kenprice.com/
Richard Shaw
http://www.richardshawart.com/home.html/
金子潤
http://www.junkaneko.com/artwork/

メールで感想をお聞かせください。 


Potterはクラフトの店に出したり自宅工房で販売、
週末の公園のバザーで並べて食器を売っていたり、
たまにフリーマーケットで見かけたりします。
窯、工房も飛び込みでも大丈夫なところが多いですが

Ceramic Artistは通りがかりで工房を覗くのは難しいでしょう。
事前にアポをとれば可能かもしれません。
日本でも同じですが・・・。

ニューヨークのギャリーガイドは参考になります。