彼との出会いは私が大学を諦め鹿児島で陶芸を勉強するために帰郷しているときでした。
彼自身も美術を目指し東京芸大を2回落ちたところで絵を諦め東京を引き上げて実家の小さい町工場(鉄加工)を継ぐべく父親の手伝いをしていました、
私の習い始めた陶芸が美術だととそのころ思ったことはありませんが
美術に未練があった彼は毎晩のように仕事を終えると片道30分も掛けて
車で私の工房へやってきました。
コーヒーと音楽と美術談義で夜を明かすことはたびたびでした。
そのころ彼は殆どやってくるだけで、私は彼の家や工場は知りませんでした。
2年目過ぎたころ
私に、自分の描いた絵があるので見てくれないか、と家へ案内してくれました。
下が鉄工所(下町の古い鉄工所といった感じ)、2階が家族の住まいで、
、私を車の中に待たせて外階段を駆け登り
、高校時代に描いたという絵を何点か抱えて降りてきました。
狭い車の中で広げて見せてくれました。
・・・自分の事も知ってほしいという気持ちをぶつけてきた感じでした.
クロッキーやデッサン、で、高校生の絵でした。
それは決して器用に描かれたうまいと思う絵ではなく
太い線で力強く荒削りに描かれていました。
かって同じように美術を目指した私の絵とはまるで違う雰囲気をもっていって、
器用に描かれた絵ではないのに何を描こうとしているのか
訴える力の大きさに圧倒されて
私とは違うタイプだと感じさせられました。
今思えば村山 槐多の感じです。
静物も器用にリアルに描いているわけではないのに
存在感は迫力が迫って来るものでした。
デフォルメや省略化されたこのような描き方は本では知っていましたが
・・・・
これをきっかけに彼とは急速に親しくなりました。
普段は数人の工員の人と父上の仕事を手伝い、工場を支えていました。
お互いに24年生まれの23歳でした。
彼にとっても美術の道で生きることは捨てがたいことだっことは
折に触れて感じました。
彼の両親も同じ気持ちだったようです。
35歳の時彼は再度美術の道へ戻ることを決心しました。
彼の高校2年生のとき南日本美術展 50号 油彩 ベニヤ板
2013年夏NHK日曜美術観で「神田日勝」を見ていました。
1980年の芸術新潮は今でも手元にあります。
特集の「ハングリーが生んだ絵」で自画像が紹介されて
初めて神田日勝という画家を知り、それ以降見ることはありませんでしたが
掲載されていた自画像や記事は印象深いもので 30年記憶していました。
30年経ってあの自画像がテレビの画面に現れると瞬間に記憶がよみがえり、
テレビ画面に釘付けになりました。当時の美術雑誌には2点自画像がでていただけで
この「死馬」など初めてみる絵でした。
今でも思い出しては番組の録画を繰り返して見ています。
アメリカのO君へも見て欲しいと録画を送りました。
番組の中で、使われているのはキャンバスではなくベニヤ板に描かれていて
キャンバスを買う余裕が無かった・・・と説明がありましたが、
O君も同じでした。かれは一度展覧会に出すと返却された絵を塗りつぶし
その上にまた次の絵を描いていたそうで、
デッサンやクロッキー以外で現存しているのはこの「機関車」1枚だけです。
描いているのは「鉄の機械」と「死んだ馬」と異なりますが
描こうとする対象の本質を捉えるところは2人に共通しているように思えます。
対象を見る目(心)が人間と同じに扱っているように。
O君は「無機質な鉄の機械」だけど、操車場の機関車格納庫で休息して
点検を受けている場面です。
神田日勝の「死馬」は、
犬や猫、家畜と生活されている人には特に伝わりやすいのではと思います。
描かれているのは物ではなく、つい先まで血が流れていて温もりがあり
閉じている目は神田日勝を見つめ
別れの寂しさや病気の苦しさを訴えていたように感じます。
そして死んだ馬は 生きねばならないという呪縛から
(この馬にとっては神田家に仕えるながら生きるとうことでしょう)
開放され安らいでいるようにも見えます。
テレビの画面といえど この「死馬」を見ているとその度に涙がこみ上げてきます。
絵の力ってすごいですね。
北海道の神田日勝記念館へ行ってみたくなります。
窪島さんは20回・・30回は行かれたそうです。
写実といっても ただ対象の形を似せてそっくりに描くのではなく
物の本質を捉えろとか、内面まで描けとか よく言われますが、
私の妻は「その指摘は抽象的観念的にで、絵のどこにそれが
描かれているのか 自分の頭では解らない。」・・・・といいます。
・・・頭で理解するとの問題ではなく 心の目で見るのだ、といえば
さらに混乱するようです。
心の目を感じ方だといえば、・・・それは人それぞれでみんな同じではありませんので
、話、言い争いはそれ以上はしません。
余談ですが、
1980年の7月号に特集された「ハングリーが生んだ絵」に
ニューヨーク在住の篠原有司男さんも取り上げられていました。
1982年彼のソーホーのアトリエ兼自宅で聞かせてもらった話では
「俺は今確かにハングリーだ、でも勘違いして欲しくないのは
ハングリーだから絵が描けるとか、ハングリー精神で頑張力が沸くとか
世間でよく言うけど
俺の場合そんなのとは違う。
俺のハングリーは純粋に芸術を追求した結果だ。
絵の具を買う金がないので、苦肉の策というやつで
ニューヨークってそこいらに捨ててあるダンボール箱はいくらでもあるじゃない、
それを拾い集めてオートバイや怪獣を造ったら、
いよいよごみ拾いまでするようになったか、と云われるわけよ。
使ってみたら面白もので・・おまけに只だし、・・・。」
と本人が語りました。
http://www.art-blue.jp/gsin/1980/198009.htm