以下篠原さんの書かれた文です。
「・・・・
やきものを現代美術と呼べるだろうか。
・・・
確固たる自己主張、表現形式を追及し続けるアーテストが
そぞれの成果だと自信をもって発表しえた時、
それぞれが最近大いに期待を持たれ
現代美術のジャンルに割り込んで来たやきものだとしても
ぼくらは目を見開き心を全開にして受け富め賞味し、
拍手を送ろうではないか。
と云っても、輝く未来がそう簡単に手に入るものなら誰も苦労しない。
出来上がったやきものをたたき壊すのはやすい。
粘土こねの時点では
大きさ、形などに無限の可能性をひめた造形も
窯を通過し火あぶりにされて出て来た時は、いじけ切った壊れ物でしかなくなり
初めの純粋な創造精神は窯の制約で
形は平凡に曲げられ 色肌触りまで均一化される運命、
そのクラフトマンシップと呼ぶマンネリズムが良し悪しを左右し
アートとは遠くかけ離れたものになってしまう。
・・
見る者にこれは一体難だ!と云う芸術の初原的で最重要な
質問をあびせる
陶芸の固定的観念を一掃し、
堂々現代美術の一翼を荷い切っている・・・。」
・・・
アメリカやカナダ、メキシコ辺りまで陶芸の学部がある大学
美術館を歩き回り、それだけの陶芸家や陶芸教授に会い、
自分らしい陶芸で何をやったらいいか探し回りましたが
こういう意見を聞かせてくれる人には会えませんでした。
結局帰国前、最後に会った篠原さんの陶芸観でした。
これは先だって書きました
奥君やスティブ・トービンの作品、生き方に通じる内容だと思います。
どこのどんな陶芸家の教えより
もっとも考えさせられ
良くも悪くも影響を受けました。
ニューーヨークの近代美術館に
北大路魯山人、浜田庄司などの明らかに工芸で現代美術とは
言えそうにない壷や食器が展示されているのを見ると
その定義や分類をどう説明するかと問われたら
即答に困ります。話せば長くなりますので
何時かお会いしたときに語りましょう。
1980年 ソーホーのロフト
篠原さんはブロンクスにアトリエ兼自宅はあります。