2013年12月6日 朝刊(南日本新聞)
私が公募展に出品した理由は複数あります。
ただ、出品しておきながら矛盾していますが
会場を観ていると、人それぞれの感情の表現に
優劣を付けることに何かしら抵抗を感じたのは否めませんでした。
ただの入選に対して受賞作品は表示してあり
それらが他より優れていると
観る人は たぶんそれに捕われた見方や価値判断をしてしまうでしょう。
11月21日付けの南日本新聞に日展について記事がありました。
10月には日展書道部の問題が取り上げられていました。
その内容はもっと具体的で露骨なもので「入選入賞にはお金が掛かる。」でした。
私がこういう関係の公募展に出さずそちらへ渡った理由の一つに
今取り上げられた内容の事柄が30年前でも慣習的に行われていました。
美術界の常識ともいわれました。
審査員も人の親で人の子ですから
身内がかわいいのと同じ、
弟子や教え子が出品したとすれば手心を加えるのは人情で、
それは百歩譲っても 大学の裏口入学ならぬ裏口入選に
お金が掛かるとなれば もう社会的に許されないことでしょう。
権威付けするために公の機関を冠とした賞があるのですから。
そもそも日本での多くの美術の値段の価値、価格はこれら公募展の
入選、受賞歴が基準になっているのが現実でしょう。
美術界で「どこぞの団体に所属する」という表現があります。
団体とは日展とか公募展を運営する組織(集団)の事です。
個人で活動するより
組織に加わり入選、入賞すれば世間の評価を得られやすいです。
新聞などの扱いも大きいでしょう。
・・・必ずしもそういうことだけではありませんが、
個人の活動は、ようするに「個人プレー」で
低く見られがちで評価もされにくいです。
・・・自画自賛とも言われかねない。
アメリカと日本の比較文化を勉強されているなら
美術の価値、値段の背景がどうなって
どう構築されているか調べるのも面白いのでは。
公募展の実情を知って
こういう世界に一切関わらないで無所属を通している人、
アンデパンダン展グループ展等に参加している人も少なくないです。
公募展に名前が登場する人だけが芸術家ではありません。
私が昨年から出品し始めた南日本美術展も同じです。
むしろ出品しない作家の方が多いでしょう。
南日本美術展は一般公募展ですが
審査は公平だと信じます。
審査員は地元とは関係の無い人たちで
繋がりはありません。
私の場合なぜ出品するのかと問われたら
自画自賛とみなされることを避けたい気持ちと同時に
自分の考え(陶芸観)を
不特定多数の人の目に晒して、
こういう生き方もあると知ってもらいたいからですと
答えます。
格好つけて言えば
人生はいくつになっても冒険で挑戦です。
創作はそのものが既成概念の破壊です。
日本人の価値判断は
権威付けされたものによるところが大きいです。
またそういう教育を受けて育っています。
たとえば美術の世界では本や教科書に掲載されていた
作品ほど重要で価値があるかのように教えられ
美術館に足を運んでも「あ、この作品は教科書に出ていたあの作品だ。」
と観る傾向があります。
それは世間の評価を尺度にしているということになりませんか。
アメリカの場合は世間や周囲の評価より
自分が好きかどうかが重要になっていて
つまり価値判断の尺度は自分自身にある、でしょう。