今回で4回目の出品です。
もう来年の作品を考えています。
会場を借りて個展をしているつもりです。
こういう公募展は作家にとって権威付け箔付けに利用され
そのような目的で企画されることが一般的なので
出品することはありませんでしたが、
この南日美展は10数年前改革されて一変しました。
今新聞に連載されている「創造の軌跡」にそのことが
表されていると思います。
陶芸は・・・
1940年ごろ文芸春秋(父が購読していました)に志賀直哉の陶芸についてのコラムが・・。
それは骨壷の話です。「・・・友人の小説家が亡くなり、通夜に行ったところ 祭壇に粗末な素焼き の骨壷が・・・・・遺族に私は友人の陶芸家が焼いてくれた骨壷があります、是非それに入れてあげて欲しい、と 申し出ると 快く受け入れてもらえた。私はさっそく家へ取りに戻った。かくして今その友人はその骨壷に入っている。
後日そのことを陶芸家の友人に話すと代わりの壷を焼いてくれた。
私の家の台所には2つの壷があり、塩と砂糖が入っている。朝晩使って使い慣れ親しんだ
その手垢のついた壷に やがて死んだら入る、という寸法のものです。
私にとって骨壷とはそういうものです。・・・」 (※その陶芸家は浜田庄司です。)
こういう内容のコラムでした。
高校1年の時何気に読んだそのコラムは記憶に焼きついていました。
その時の感想は・・・陶芸家ってすごいな・・・壷って、骨壷になれば
人の人生を包含するものなんだ・・・・すごい仕事なんだ・・・。
というもので 今でも覚えています。
それからこの文章について思い出したり考えたりするとはありませんでしたが、
35歳の時アメリカ留学から帰国して窯を築くとまもなく父が脳梗塞で倒れ
闘病生活に入りました。
帰国しても何をやったらいいか迷っている私の陶芸観を父は理解できませんでした。
倒れて1年過ぎると、生きることを諦めた父は枕元に私を呼び、
骨壷を作ってくれと注文を受けました。
条件は、「白、で四角、俗名を刻んでくれ、他に何も装飾は要らない、無地がいい。」
何故そんなデザインかと尋ねると、
「四角は墓の中は四角に出来ている、丸では無駄な場所が出来る。
おれは死んでからまで無駄をしたくない。四角ならきちんと収まる
俗名は、これで70年生きてきた、これから先もこの名前でいたい・・
・戒名は要らない」そういいました。
父へ 「分かった、作る。 ・・・そう言えば、
昔文芸春秋に志賀直哉の骨壷の話があったけど、覚えている?」
「ああ、それよ、お前もよく覚えていたな。それよ」
父との会話はこれだけでした。
陶芸をすると言い出してから10年間 断絶が多かったので
それが陶芸を共有した最初で最後でした。
2ヶ月後白い骨壷を焼いて枕元に届けました。
しばらく父を見ていると時間を気にして枕元の時計を頻繁に見ていました。
好きで取り寄せたドイツのユハンスの置時計でした。
もしかしたらそれよりも、と父の為に焼き物で時計を作りました。
それも喜んで枕もとに置いていました。 それが最初の陶時計で、
時間をテーマに作品を作ることを思いつきました。
それいら30年陶の時計を作っています。
父は今その自分が希望した白い箱の中にいます。
画像の時計はその時のもので、今でも動いています。
子供のころから絵を描くのが好きで得意でした。
一枚の紙と鉛筆一本あれば何時間でも遊んでいられました。
物心着き始めると、あれは駄目、それも駄目と躾を受け始めると
制約受けない白い紙の世界に逃げ込んで 好きにやれた、口出しされないで自由に遊べた
そんな絵の世界に夢中になっていきました。
私にとって美術はそんなもののことでした。
南日美展は日本の公募展の中でも数少ない、ジャンル別、枠を取り除いた
油絵も日本画も焼き物も彫刻も同じ土俵で競う展覧会です。
本来美術にジャンルも制約は無いはずですから・・。
技術は手段で、窯は道具に過ぎません。
それら手段や道具を駆使して何を表現するか、というようなテーマが
最も重要だと思います。
秒針だけ動いている壁の時計は ただ目的を持たず過ぎていくだけの時間を表し、
日記帳(本の形)の上の時計は長針と短針だけで、動いているのか分からないけど
無言で今を示している・という2つの時計です。
それも亀裂が入り、やがて終わりがあるということを暗示、しています。
閉じて重ねて置かれた日記帳は過去で、手前に開かれて置いているのは今を表します。
・・・
「日常的なものの中で私に仕えていながら 私を支配しているのが時計で、時間です」
長いですが「時間の肖像」の副題です。