初めて陶の時計を作ったのは1980年、
父は病に倒れ床に伏せていて
枕元にはお気に入りの時計を置いてしきりに見ていた
父にとっては、その時その時の時間が、
残された大切な時間で、刻一刻が目に見えて死に近づく時間で
両方の意味があったことは間違はいなく、
そのような時を刻む枕もとの時計が
どこかの工場で作られた機械的なありふれた時計では
可哀想な気がして・・・・
死を覚悟したのだろう父は、私を枕元に呼び
骨壷を作ってくれ、と頼んだ。
注文は 、白で四角、装飾は何もいらないけど
これまで73年生きてきた俗名を刻んで欲しい。
これから先もずっとこの名前でいたい。
白が欲しいというので熊本県の天草まで行き陶石を探す。
ひと月して、父の枕元に置くための時計(下の画像)と
骨壷を届けた。
父は2つとも気に入ってくれ
亡くなるまでの半年、枕元に置いていた。
時計は、もう30年になるけど、今でも私が使っている。

30年前父の為に作った時計

父の骨壷 (天草陶石 白磁)
※ 骨壷の蓋に見えるのは一匹の鯉、
父が庭の池に飼っていた鯉がモデルで、これを添えたら、
先々、さぞかしく寂しくないだろうと・・・
”装飾は要らない”とは言っていたけど、
”ま、いいだろう。”と受け入れてくれた。
高校生の時、
自宅には父の購読していた文芸春秋があり、
その中の志賀直哉が書いたコラムで「骨壷の話」が・・・。
今でもその大体の内容を覚えている。
「・・・友人の文豪が亡くなり、お通夜に行った。
祭壇に素焼きの骨壷が置いてあり、それではかわいそうな気がして・・・
遺族に・・私には自宅に友人の陶芸家が焼いてくれた
壷がある・・・、できるならそれにいれてもらえればと思いますが・・・、
私はまた作ってもらえるので・・
・・そのように申し出ると、快く受け入れてもらえた。
さっそく自宅へ取りにもどった。・・
・・・その友人は、今、その骨壷の中・・・・・
私は友人の陶芸家に、このことを伝え、
また作ってもらった。・・
・・・・
わたしの家の台所に2つの壷がある。
それぞれ塩と砂糖が入っている。
朝晩、毎日使い親しみ、手垢が染み込んだ
それらの壷は、いつか死んだら、中味を空けて骨壷になる。
・・ひとつは私、もうひとつは妻・・・・
骨壷は・そのようなものがいい・・・
(※ その陶芸家は人間国宝だった益子の浜田庄司)
当時、この記事を読んで
漠然と、陶芸家って人の人生に関わるような、
たかが壷だけど、人の人生を包含するもんなんだ・・と
思ったことは はっきり記憶している。
※後年、志賀直哉のこの骨壷が墓から盗まれる事件がニュースになった。
志賀直哉の熱狂的なフアンなのか
浜田庄司の焼いた壷が目的だったのか騒がれた。
文芸春秋は1970年の頃の話で、
父の骨壷を作ったのは1985年、
お互いに志賀直哉のコラムを読んでから15年経っていたけど
この記事が印象深く、たまたま父も私も記憶していた。
その時、父と交わした会話が、
私「そういえば高校の頃、文芸春秋に。」と言っただけで
父「そう、それだ。」
私「わかった、白や俗名の意味はわかるけど、四角はなぜ・・」
父「墓の中は四角い、丸では四隅が死角になる。
死んでからまで無駄をしていたくないからだ。」
この話が陶芸家になるきっかけではなかったけど
陶芸の道に入ってからの方向性への影響は大きく、
今だに引きずっている。